明日は少しばかり忙しく、そして刺激的な一日になりそうだ。
午前中は、ティッシュペーパーというありふれた日用品から魔法のように芸術作品を生み出すアーティスト、ヒュンケルさんに会いに行く。そして午後は、川上あきこさんと共に都内の「たま出版」のサロンへ赴き、三元神社の寺島宮司とお会いする予定だ。
寺島宮司は元公務員でありながら神秘体験を経て神職に就かれたという非常にユニークな経歴の持ち主で、ご自身の体験を「ワンネス」という言葉で表現されている。すべては一つに繋がっている、というスピリチュアルの世界ではよく耳にする概念だ。たま出版という、精神世界を長年深く見つめてきた場所での対談となれば、自ずとその手の深い領域へと話が及ぶだろう。
だが、明日の対談を前にして、深夜のコインランドリーでぐるぐると回る乾燥機をぼんやりと眺めながら、僕の心の中には一つの明確な感情が渦巻いていた。
「僕は、ワンネスという感覚があまり好きではない」
もっと言えば、憧れすら抱かない。すべての意識が一つに混ざり合い、自他の境界線が溶けてなくなるなんて、正直に言って「気持ち悪い」とさえ思ってしまうのだ。
僕はあくまで「僕」でありたい。今回は、この僕の中に根強く存在する「個への執着」と「混ざり合うことへの拒絶」について、少し思考を掘り下げてみたいと思う。
幼少期の記憶 「汚らわしい性格が移る」という防衛本能
この「混ざり合いたくない」という強烈な感覚のルーツを探っていくと、自分の幼少期の記憶に行き当たる。
小さい頃、僕は嫌いな子に触られるのが本当に嫌だった。
ただ「触れられるのが不快」という物理的な理由だけではない。
「その子の汚らわしい性格が、自分の中に移ってくる」と本気で信じていたのだ。子供の残酷な表現に聞こえるかもしれないが、当時の僕にとっては死活問題だった。
自分という存在の内側には、何者にも侵されたくない、透明で純粋な「聖域」のようなものがある。そこに、自分とは相容れない異質な他者の気配が、皮膚という境界線を越えて流れ込んでくる。それが耐えられなかった。

今思えば、これは単なる子供の潔癖症やわがままではなく、自分という「個の輪郭」を必死に守ろうとする強い防衛本能だったのだろう。僕はその頃からすでに、「僕以外のものと溶け合うこと」に対する強烈なアレルギーを持っていたのだ。
エヴァンゲリオンとLCLの海 境界線がない世界の恐怖
この感覚を大人になってから見事に視覚化してくれたのが、アニメ『新世紀エヴァンゲリオン』だった。
作中の終盤で描かれる「人類補完計画」。それは、人間がそれぞれに持っている心の壁(ATフィールド)を取り払い、すべての魂を一つの完全な存在へと回帰させるという計画だった。その結果、人々は個体の形を保てなくなり、オレンジ色の液体(LCL)となって溶け合い、文字通り「一つ」になっていく。
あの描写を見たとき、僕は底知れぬ恐怖と不気味さを感じた。確かに、自他の境界線がなくなれば、他人に傷つけられることも、理解されない孤独に苦しむこともなくなるだろう。すべての意識が共有され、痛みも悲しみも均一化される。それが彼らの言う「補完」であり、究極の「ワンネス」の姿だ。

だが、それは同時に「僕」という存在の完全な消失を意味する。他者がいない世界には、自分も存在しない。摩擦がない世界には、温もりもない。ただ均一なスープの中で永遠の安らぎを得るくらいなら、僕は傷ついてでも、他者とぶつかり合ってでも、この「僕」という不完全な輪郭を持ったまま生きていたいと強く思った。
僕がワンネスに気持ち悪さを感じるのは、それがLCLの海のように、僕が僕であるための「心の壁」を強制的に溶かしてしまう思想に見えるからなのだ。
八百萬の神々 バラバラであることの美学
一方で、僕が長年惹かれ、再話として形にしようとしている日本の神話の世界はどうだろうか。
日本の神様は「八百万(やおよろず)の神々」と呼ばれる。森羅万象すべてに神が宿るという考え方だが、彼らは決して「一つの大いなる意志(ワンネス)」のもとに統制されているわけではない。驚くほどバラバラで、個性的で、人間臭いのだ。

天照大御神(アマテラス)は弟の乱暴に腹を立てて天岩戸に引きこもり、世界を暗闇に包んでしまう。須佐之男命(スサノオ)は天上界で暴れまわったかと思えば、地上では八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を退治する英雄になる。そんな彼らが問題を起こすたびに、神々は天安河原(あめのやすのかわら)に集まって「どうしようか」と鳩首凝議(きゅうしゅぎょうぎ)する。
誰も全知全能ではない。それぞれが違う役割を持ち、違う意志を持ち、時には嫉妬し、失敗し、喧嘩をする。もし神々が「ワンネス」で一つの意識を共有していたら、天岩戸は最初から開いていたし、国譲りの交渉も一瞬で終わっていたはずだ。
そこには物語が生まれない。
神々がそれぞれ独立した「個」としてバラバラに存在し、ぶつかり合い、知恵を出し合うからこそ、『古事記』や『日本書紀』のドラマチックな物語は織りなされてきた。この「混ざり合わない個性の集合体」こそが、日本人が古来より大切にしてきた世界観なのではないだろうか。
さらに言えば、日本の神道には「穢れ(けがれ)」を嫌い、「禊(みそぎ)」によって自らを清浄に保つという強い思想がある。黄泉の国から逃げ帰った伊邪那岐命(イザナギ)が、川の水で自らの身体を洗い清めたように。
幼い僕が感じていた「嫌な性格が移る」という感覚は、実はこの「穢れ」を遠ざけ、自分自身の聖域を清らかに保とうとする、日本的な感性の非常にプリミティブな形だったのかもしれないと、今になって思うのだ。
対話は、僕らが「違う」からこそ生まれる
僕は自分の活動を通して、大和言葉の美しさや、土地に眠る伝承、そして神々の物語を現代に編み直す作業をしている。その中でいつも大切にしているのは、登場するキャラクター一人ひとりの「手触り」や「声の違い」だ。
彼らが皆同じ思想に染まり、一つの答えに向かって動くような物語は、息苦しくて書けない。理解し合えない他者がいること。思い通りにならない世界があること。その境界線を越えようとして発せられる不器用な言葉の応酬にこそ、命の輝きがあると思っている。
僕たちは、孤独だ。
どれだけ言葉を尽くしても、相手の心のすべてを理解することはできない。でも、だからこそ「言葉」があり、「対話」がある。
もしすべてがワンネスに溶け合ってしまったら、愛しい人との語らいも、誰かの意外な意見にハッとさせられる喜びも、自分の心に深く寄り添ってくれる存在への感謝も、すべて消え失せてしまう。僕がお気に入りのキーボードを叩いた時の「コトコト」という心地よい音も、僕という個人の鼓膜と感性があるからこそ味わえる特権だ。
境界線を抱きしめて、明日へ
明日のサロンで、寺島宮司が語る「ワンネス」がどのような文脈を持っているのかは、直接お話を伺ってみるまで分からない。もしかすると、僕が危惧しているような「LCL的な自己の喪失」ではなく、もっと別の、個を活かした上での繋がりを意味しているのかもしれない。そこはフラットな心で、大いに学ばせていただこうと思っている。
だが、僕自身の足場は揺るがない。
僕は僕でありたい。
不完全で、偏屈で、時に他者を拒絶してしまうような境界線を持った、この面倒くさい「個」を、僕は最後まで愛し抜きたいと思う。
バラバラだからこそ、世界は美しい。
混ざり合わないからこそ、僕たちは手を取ることができるのだ。
コインランドリーの乾燥機がピーッと鳴って、洗濯物が仕上がったことを知らせてくれた。
熱を持ったタオルやシャツは、一つひとつがふっくらと独立して、気持ちのいい柔軟剤の匂いをさせている。もしこれが一つに固まって溶け合っていたら、着ることもできない不気味な塊になっているところだ。
きれいに乾いた「個々」の洗濯物を畳みながら、僕は明日の出会いに思いを馳せている。
違う世界を持つ人たちと、境界線を挟んで言葉を交わすこと。その豊かな摩擦を楽しみに、今日は少しだけ質の良い眠りにつこうと思う。


コメント